昭和48年09月12日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり、信心なければ世界が闇なり。」
只神様を拝んでおると言うだけでは、信心ではない。信心とは、我が心が神に向かうのを信心と言うのじゃと、神徳の中に生かされて生かされておっても、それを御神徳の中に生かされて生きておると言う、実感そう言う心がなかったら、そう言う心がおきてこなかったら、それは信心とは言えない。信心とは我が心が神に向かって、我が心が神に向かうことにも、向かい方があるのですけれども、只神様と言うて神様に合掌する、神様を拝む、もうそれが言わば信心と言うでしょう、じゃないと言う事は言えない。
けれども心に、光がともる程しの、向かい方でなければならない、ですから、本当に向かうと言うのは、自分の心が神様に向かって、一歩づつでも、近付いて行くと言う事、それでなければ、光ると言う事にはならないが、神様にむかうと言う事が、どう言う事かと言うと、我情我欲を離れると言う事の修行、我情我欲のための信心、ではなくて我情我欲を離れて行くことのための、信心だからその我情我欲が、少しづつでもとれてゆくだけが光なのです。
我情我欲がとれて行く、それが少しづつでも取れて行くことが、神に向かうと言う事になるのです、我情我欲を離れてそしてはじめて、我が身は神徳の中に在る、神徳の中に居っても氏子に信なければ、おかげはなしと仰る。信とはそう言う事、神徳の中にあってもそれは理屈ではよう分かるのです、御神徳の中に生かされておる事は分かりますけれど、それが光ともならなければならない、信ずる力ともならなければならない。言うなら夜でも不自由せんで済む程しのものでなからなければならない。
言うなら真黒な暗澹たる状態だと言われる中にあっても、いわゆる只今修行中にあっても今が苦労の真っ最中と言う中にあっても、信の光と言うものが点れば、それは有難いものになってくる、その有難いものになって来る程しの信心、光がなからなければ、信心とではない。それには我が心が神に向かって行かねばならん、我が心が神に向かって行くと言うことは、我情我欲がとれてゆく事である。我情我欲がはなれて初めて我が身は神徳の中に生かされてあると言うのが分るのである、理屈で分るのではない。
我情我欲を離れて、始めて神徳の中に生きる、神徳の中に居っても氏子に信なければ、おかげはなしと言うところ、御神徳の中にあらせてもらう、それが実感して生きることの生活が、神恩報謝の生活はそこからしか出来ない。その有難い勿体ないと言う生活こそが、光を持っておる者の生活と言える。そこで我情我欲を離れて行くことのための、信心修行と言う事になる、同じ修行させて頂くでも実生活に即応しないところの修行であっては、つまらぬ。金光様の御信心は。
世の中には様々な修行があります、火の行水の行と、インド辺りでは一生逆立ちをしておる、行をすると言った様な大変難しい修行があります、だからそれに類した修行はお道の信心では、修行ではない、お道での信心は、言わば実生活に密着したものでなからなければ、まあ例えて言うなら断食をする、もうお腹がぺこぺこになってから、自分でせんならん仕事でも、もうされんようになる、と言った様な修行ではお道の信心修行にはならぬ、いやむしろそれは言うならば邪道と言うてもええかも知れん。
只自分の身を苦しめておるだけ、が修行のような考え方は止めなければならない、けれどもです、その例えば断食をさしてもらう、ひもじさを通り越えて有難いと言うものが生まれてくる。生神金光大神がしら真剣に称えさせて頂けれる事のために、その修行が密着しておると言うのであればそれは修行になる。お水を頂くでも、この寒中に水垢離を取ってと言う事でもです、只おかげを頂かんならんから、水垢離をとって神様を拝むと言うような事のための、修行はお道の修行にはならん。
けれどもそのお水を頂くことが真剣に生神金光大神、言うなら今日の御理解で言うなら、我が心が神に向かって行く、手段ともなるならばそれは有難い修行であるから、それはさせて頂かにゃならん、そうすると実生活の中に求めさせてもらうところの修行、この両方の修行がなされて行くとそれも我情我欲をはなれて行く事のための、修行が出来て行く時にそれは我が心が神に向かっていると言う事になる。
世の中には言わば割り切ったと言うか考え方、親鸞上人様が説かれたような例えば悪人でも尚助かるんだと、善人ですら助かるんだから、悪人は尚更助かるんだと、言わば悪人に於いておやである、それは天地の親神様からしてみればです、やはり屑の子が可愛いのですから悪い事をしたり、人の迷惑になるようなことをするような、言うなら屑の子に情と言うものは動くでしょうけれども、だからその悪人が例えば悪人である事を悟って、詫びの生活に入る、お詫びの生活に入る。
我が心が神に向かう生活に入った時にです、始めて助かるんだと。それはどう言う悪人であっても、悔い改めた所から助かるんであって、悪人のままで助かる筈はないと思う、その辺のところが金光様の信心と違う。他力本願だけではない、そこには他力があるようであって、実を言うたら自力である、神力無限の中に、只自分の身を委ねておる、まかしておると言うだけでなくて、そこにはいわゆる神力に対する所の人力、人間の力を以てと言うところにそれが相まっているところに、お道の信心がある。
教祖様の奥城に参りますと、教祖様のいわゆる盆号、金光大神の盆号は人力威尊と書いてある、人間の力を以て世の中をアッと言わせる程しの力である、働きであると言う意味のことです、人力威尊、だからですね。人力、後でおかげがある意味で成就してから考える時に、その人力もまた神様のおかげで、と言うことになるのですけれども、やはり例えば皆さんが朝参りしてみえる事であっても、火の業、水の行をなさると言う事であってもです。やはり発心するのはあなた自身である。
さあ今日から朝参りするぞと、言う思う心はこれは人力である、例えばこげな我情我欲を言うとったんではいかん、こげな我欲、たとえば我情我欲があっても、お任せしきっておって、神様に委ねきっておると言う心で、浮かばれるんだ助かるんだと言うて、これは頂き方では、いかにも大きい様であって、それでは真実の光にはならん。暗かっても明るかっても、神様のお恵みの中で、例えばそれは地獄であっても、天地の親神様の懐だと言う。言うならば偉大な考えのように見えますけれども。
果たしてそれでは神様は喜んでくださらん、私どもどんな悪人であっても、悪人を悟って悪人生 起、悪人と悟ってそれから本当の善人にむかう心、神に向かう心、そして極楽行ってこそ、私は神様のお喜びはあると思うです。この辺のところお道の信心は全然ほかの宗教と違う所と思うです、信なければ世界は闇なりと、闇の中にあってもやはり阿弥陀如来様の世界だと言う頂き方はないわけです。闇であってはならない。
信心の光というものがなからなければいかん、信の力と言うものがなからなければいけない。それには人力威と言う位に、ああ言う人間がどうしてあんなに変わったぢゃろうかと、思われる位に変わって行く、言うなら我情我欲を取り除いて行くと言う事。なら私を知っておる昔の人だったら、もう本当に詰まらぬ人間だったでしょう、なら今でも詰まる人間と言う事ではないですけれども、まあようもあんなに変わられたもんだと、まあ昔の私を知っておった人達は、今の私を見て下さったらそう思われるだろう。
そこに私の助かりがあり神様の助かりがあり、私の喜びがあり、神様の喜びがある。てもこう言う事を改まれといわれても、人間として改まれないと言うことをそれこそ、人力の限りを精進の限りを、努力の限りを尽くさしてもろうて、我情我欲を取り除かして貰う、ことに一生懸命になったところから、真の光が生まれ出した、真の光が、光が灯きはじめた。その光に皆が集まって来ると言う事になりました。
金光教の信心はそういう助かり、今日は信心せよ信心とは我が心が神に向かうこと、また今までは私はここのところを我が心と只神に向かうと言う事、信心だと言う事を申しましたが、信心を、我が心が向こうて行くことのためには、一つ人力の限りをつくさなければ、神様には向こうて行かれないと言う事、いや真の光にはならないと言う事。神様は屑の子程可愛いと仰るから、屑の子であってよいと言う事ではない、屑の子が可愛いと仰られても、屑の子は屑の子であり、地獄はやはり地獄である。
その地獄の底にうごめいておる、言うならば難儀な氏子をご覧になって神様は喜んで下さる筈がない。それこそ地獄の釜の底を踏み抜く程しの力、その底に極楽があったと、極楽の世界をこの世の中で体験させて貰う、生活に入った時にはじめて天地の親神様は喜んで下さるのであり、安心して下さるのである。そこに神に向かうと言う事が言えるのです、問題はその我情我欲を言いながらそして神様にお願いして行くと言う信心では何時までたっても、それは本当の極楽に到達出来んと思う。
これは難しいことです。改まると言うことでもそれは人間の力では、どうにもできないようですけれど、それでもやはりそれに取り組んで、本気で改まって行くところからです、改まった生活に入ることが出来る、それが神に近ずいて行くと言う事、我情我欲が取れて行くことが神に近ずいて行くことである。それが光になるのだと言う風に今日は聞いて頂いたですね。
どうぞ。